綴る人。

日々の感情を綴る。

善悪の間で何を踊る。

映画やドラマでしばしば用いられる題材として「善」と「悪」の対立がある。相反するこの二つの概念あるいは思想がぶつかり合う場面は、物語のクライマックスとして、多くは激しい戦闘シーンや手に汗握る舌戦によって表現されている。人々はこの争いを見て興奮したり、感動したりする。私もその一人であることは間違いない。

先日、とあるヒーロー映画を観賞した。ヒーロー映画と言っても、主人公は正義の味方ではなく、そのヒーローの前に立ちはだかる宿敵が誕生するまでの物語である。

 

人々を笑顔にしたいという思いを胸に、一流のコメディアンを夢見る主人公。しかしその一方で、脳神経の障害に悩まされる日々を送っていた。主人公はその障害によって、夢に近づくどころか、笑顔にしたいと思っていた「人」に見放され、無視され、疎外感を抱くようになる。その疎外感はやがて取り返しのつかないほどの大きな心の傷となっていき、次第に大きな憎悪へと変貌して主人公の精神を蝕んでいく。

この物語では、「資本主義社会が生み出す貧富の差」や、「精神疾患の軽視」というような歴史や時代が、障害に悩む主人公を「悪のカリスマ」へと導くバックグラウンドとして存在している。これらの背景に関しては確かに興味をそそる展開であった。如何に人々を憎み、恐怖へ陥れる存在となったかは、物語の重要な分岐点でもあったと思う。しかし主人公は「悪のカリスマ」へと変貌し、はたしてすべての人々を恐怖の渦へ巻きこんだのかというと、少し違うのではないかと考える。

 

最後のシーン。暴徒たちが蔓延るカオスと化した路上で、主人公が失っていた意識を取り戻すシーンがある。彼はすでに非人道的な事件を実行しており、その所業をテレビの電波で流している。多くの人々はその行為に対して恐怖や嫌悪感を露わにしている。しかし、周囲にいた暴徒たちは、意識を取り戻した彼に対して「立つんだ!」と叫ぶ。そして彼が身体を起こした瞬間、歓声が巻き起こる。主人公はゆっくりとではあるが、歓声に応えて踊る。

暴徒たちは彼を祝福したのである。これは、主人公の「悪のカリスマ」としての存在が、彼らにとっての「正義」であり、すなわち「善」なのではないだろうかと思えてならない。

「悪のカリスマ」は狂乱の中で何を思い、そしてその目で何を見て踊ったのか。

 

この手の映画を観ると、自分の主義思想が「善悪」という物差しで測られた時、どのような答えとなるのか分からなくなる。あるいは測る価値もなく、何も知らず、私の陳腐な思考は、ただただ社会に踊らされているだけなのかもしれない。