綴る人。

日々の感情を綴る。

記憶は、何のためにあるのか。

心の底から後悔して、忘れたくても頭のどこかにこびりついているような記憶は、数える程であるが、誰でもひとつやふたつはあると思う。忘れたくても忘れられない記憶は、心の傷と言ってもいいのではなかろうか。しかし、それは本当に忘れるべき記憶なのだろうか。

 

小学校高学年の冬頃だったと思う。白くて小さくて、体の動かし方もよくわかっていないような、本当に小さな猫だった。寒空の下で凍えていたのが可哀想に思ったのか、私の家族の誰かが拾ってきた猫だった。

一度拾ってきた動物には愛着がわいてしまって、そのまま育てる。我が家ではそんな感じの暗黙の了解的なものがあったと思う。

しかし、その時すでに犬も猫も二匹ずついたと思う。経済的な負担とかがあって、これ以上のペットは飼うことが厳しそうな雰囲気があった。

猫はなにか訴えかけるように、小さな体で小さな鳴き声を懸命に上げていたのを覚えている。捨てないでほしいという思いがこちらにも伝わってきそうな鳴き声だった。

私はなぜかその時、自分の家の事情を心配していた。これからこの猫を飼うことになったらどうなってしまうのか。今考えてみると、一匹増えたところでなんとかなるし、飼えなかったとしても何かしらの方法はいくつもあっただろう。

しかし、そこで私が考えた事はとても愚かで卑劣だった。今でも文章には表せないくらい情けなくて薄情な感情から生まれた気持ちだった。

 

翌日、猫は動かなくなっていた。

その猫の姿を見たときに、初めて自分の考えがどれだけ愚かだったのかを思い知った。

本当に後悔した。そんなことを考える自分がいるという事実が心の底から悲しかった。

 

 

 

時々、夜中まで読書に耽ったり、考え事をすることがある。そんな時に、ふと、その猫の事を思い出す。忘れたかった記憶だったが、今は忘れてはいけない記憶だと思っている。その猫の記憶を頭から消してしまえば、その猫が生きた証は、どうなる。あんなに小さな命が、文字通り命懸けで生きたいと鳴いていた声を忘れてしまって、どうする。命の儚さを、この歳になって初めて知る。