綴る人。

日々の感情を綴る。

思索に吠える。

私は読書を趣味としている。他にもいろいろと趣味と言えそうなものはあるのだが、読書のように何年間も継続している趣味はほとんど無い。

また読むペースは非常に遅く、他の読書を趣味としている人と比べると、月に5~6冊、多くて10冊程を読む程度であり、少なめの部類に入るだろう。

本を読む際に心がけている事やこだわりはそう多くはないが、例えば小説を読む際には、「解説まで読む」ことを決まりにしてはいる。

小説作品における本編は確かに大切であるし、その本編を読むために買ったり借りたりするわけだから、付随的な性質を持つ(と私は思う)解説部分は、直接本編との関連性は見出すことはできず、読まなくてもいいように感じられる。

しかし、本編が終了した後の読後満足感を何倍にも膨らませることができるのは、最後の解説部分であると考えている。

1つの物語、あるいはエッセイを読み終えると、読み手のこれまで生きてきた価値観をもとに、「どう感じたか」や「どこが面白くてどこが退屈だったか」という自分なりの意見が生まれる。読み手や作品によっては、「あそこはもっとこうあるべきだった」とか、「あの場面のあれはそもそも必要なかったのでは?」と思うこともあるだろう。その作品の性格や特長は、読む側によって感じ方も異なる。つまり、読む側の価値観などによって、読後感は無限に広がっていると言っても過言ではないのである。

一人の人間が一つの物語を読むということは、謂わば「感受性の領域を広げる」作業なのではないかと思う。

ここで「解説を読む」という行為について戻るが、この行為は、読み手と解説者が共有した物(物語やエッセイ)に関して、解釈や考察を披露し合い(実際には解説者はわからないが)、それによって更なる感受性の拡大を可能にできることであると私は考えている。

言ってしまえば「読み終わった後のボーナスタイム」のようなものに近い。

ひとつの物語を読み終えた後でも、肩の力を抜くには気が早い。解説を読むことによって得られるものは意外と多い。「思索のボーナスタイム」は侮れない。